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豊臣家の女性たち

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■豊臣家の女性たち

 戦国時代(安土桃山時代)に、全国を統一した豊臣秀吉。非常に低い身分から、天下人という、日本一の立場に立った彼の逸話は事欠きませんが、特に彼を取り巻く女性たちの茂物語は、日本史にも類を見ないものと言えるでしょう。
 秀吉の正室(第一夫人)は、北の政所でした。彼女は、まだ秀吉が無名だったころから彼を支え、その明るい性格と、豪胆な気性から、多くの武将たちに慕われました。
 秀吉は、自分自身の身分が低かったこともあって、豊臣家に仕える家臣たちが少なく、自分が心から信頼できる家来を欲しがっていました。ですので、孤児等を引き取って育てていましたが、彼らの面倒をよく見たのも北の政所でした。
 熊本城を築いた加藤清正や、福島正則など、豊臣家を代表するような勇猛な武将たちは、秀吉と、この北の政所を深く慕っていました。
 それに対し、秀吉が権力を得た後に妻となったのが、淀君です。淀君は、信長の姉、お市の方の娘でした。秀吉はこの淀君をこよなく愛しました。
 また、淀君の派閥に属する、石田三成や小西行長などの、事務や政治に優れた家臣たちが、大きくなった豊臣政権の中で活躍する中で、彼らの引き立て役となった淀君の発言力は増しました。
 しかし、北の政所、そして淀君は対立することが多く、その対立が、結果的に豊臣家を滅ぼすことになってしまいます。
 それがはっきりと表れたのが関ヶ原の戦いでした。
 このとき、淀君の派閥に属する石田三成が西軍の対象になったことで、北の政所は、加藤清正や福島正則に、徳川家康の東軍につくよう勧めました。
 そして、関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると、その後は徳川家の時代となり、大坂の陣を経て豊臣家は滅びました。
 豊臣秀吉は一代の英雄でしたが、その裏には、それを支えた北の政所や淀君の活躍がありました。そのように、女性によっても支えられた豊臣政権は、同じく女性の対立によって、その幕を下ろしたのでした。
 余談ですが、男性同士の恋愛が普通であったこの時代に、秀吉だけは女性だけを愛したと言われます。